私の生家は、花農家として生計を立てていました。
そして、祖父母は、農業と酪農を掛け持ちして日々、牛の世話と田畑の手入れに明け暮れていました。
そうです、いわゆる農業家系の田舎暮らし。
ほぼ自給自足が可能な環境で幼少期を過ごした私は、労働力として足しにはなりませんが、学校が休みの日には両親に連れられて田畑の自然と共に日が暮れるまで過ごしました。
私にとって田畑は、遊び場であり、決して逆らえない自然の厳しさをも教えてくれる学びの場でした。
不思議なもので、自分の両親が一年中休みなく働き続けている姿をみて、その大変さを肌で感じてはいたものの、いつかは、自分も実家の家業を継ぐのだろうと幼心ながらに考えていました。
そんな環境で過ごした私が、高校を卒業する頃には自分の経験を生かした仕事がしたいと思い、親元を離れて生活するようになります。
すると、外の社会を知ることでこれまで我が家では当たり前だった様々な事に疑問を抱くようになりました。
その一つが、家族が食べる為に作っていた農作物の生産方法についてです。実家に帰省したある日、父親に問いかけた事があります。
「我が家はなぜ無農薬で作物を作らないのか」
それに対して父親はやや厳しい口調で即答。
「それは自分でやってみてから言うことだ」
その時の私には、返す言葉がありませんでした。
いわゆる食の安全性を考えるとき、食材の産地や生産方法、加工方法は重要な選択基準に挙げられます。
しかし、この部分だけに目を奪われて「誰がどのような想いで手間暇をかけているのか」という事が抜け落ちてはならないのだと私は受け止めました。
特に生産者の顔がわかる農作物に対しては、何よりも先にまず大切なのは「ありがとうございます」という生産者に対する感謝の気持ちであり、「これは無農薬ですか」という問いではないのです。
食の話に限りませんが、世の中に広まっている「自然派志向」の生き方も知識や情報ばかりに囚われてしまうと、そこに関わっている人と人との「自然な成り立ち」という大切な関係性を見失いかねません。
これは、そう体堂の施術にも通ずるものがあると感じています。