花農家として生計を立てていた私の両親は、基本的に年中無休で日が出る前に起床し、日没まで畑仕事に精を出していました。私も幼少期の頃から一緒に畑へ出かけていき、お手伝いをすることが日課でした。しかし、小学生くらいになると反抗したい気持ちが芽生え、畑へいく事を渋るのですが、缶ジュース1本のお駄賃につられて結局は畑に行くことになります。その際に、よく任されていたお手伝いが「畑の石拾い」。なぜ石拾いなのか。トラクターで土を耕す際に、大きな石があるとロータリーの刃を破損してしまうからです。ですが、今になって思うと刃を破損させるような大きな石を小学生の私に拾わせるのでしょうか。

その理由はさておき、石拾いを任された当時の私は、それこそ夢中になって石を拾い集めました。それは、お手伝いをしている、両親の手助けが出来ている、という勝手な満足感や使命感が多少はあったかもしれませんが、最も大きかったのは石を探す、石を拾うという単純作業に「飽きなかった」という事です。畑の土の中に埋もれている様々な石。どれも変哲も無い石なのですが、全ての形が違い、色が違い、質感までもが違いました。ただそれだけなのですが、その一つ一つの造形の変化に夢中になり、飽きるどころか気がつけば日が暮れるまで没頭し、お気に入りの石を探す遊びとなっていました。手だけでなく、体のあちこちを土で汚しながらも石という自然の産物とただひたすら向き合う時間、一見無駄が多いこの「アナログ」なやり取りは、無駄な物をそぎ落とした「デジタル」では会得できない貴重な経験値を与えてくれました。自分の想像など到底及ばない広大な自然とのやりとり。この無駄を経験したことで、自分の中の物事を推し量る器量は育まれ、結果として物事の本質に目を向けるようになれたと感じています。

 

大人になった今、幼い日と同じように一日中石拾いを続ける事はありません。しかし、日々の施術の中で向き合う人の体も千差万別、施術の度に毎回体が変化している事を実感した時、幼い日の誰にも邪魔されずに夢中になって繰り返した石拾いというアナログ体験と結びつきました。もしも、無駄を省かれたデジタルな幼少期を過ごしていたら、今の私の感覚は全く別のものになっていたことでしょう。それを思うとアナログな機会を得られた幼少期の生活環境に感謝せずにはいられません。

アナログが許される心と時間にゆとりのある暮らしを積み重ねる事、それには施術を受けるという経験も含まれます。デジタルが溢れる現代社会だからこそ、今の子ども達、そして次世代の子ども達にも伝えていきたい、忘れてはならない暮らしの感覚であるという想いを強くしています。